2015年09月29日

料理は食う気


 江戸市中はおだやかだった。凶悪な事件はへり、かつて鬼と恐れられた火付盗賊改めの中山勘解由は大目付に昇進していた。
 半兵衛は巡回の途中、安徳寺に立ち寄って、ひと休みしながら雑談をする。良玄を相手に、五平や吉蔵がいあわせればそれを相手に、碁を一局うち時間をつぶす。平穏なつとめだった。
 江戸城内においては、将軍にこんなことを進言する者があった。
「馬に|焼《やき》|印《いん》を押す習慣がございますが、これは残酷なことのように思えてなりません。また、馬を去勢すること、しっぽの毛を巻くこと、いずれも不要な行為と……」
「焼印とは、ひどいことだな。わしは知らなかった。よく教えてくれた。ほめてとらす。さっそく、その禁令を出すように」
 その者は大いに面目をほどこした。そのうわさはひろまり、みな大きくうなずく。なるほど、平穏な時代に昇進するには、このような方法をとるのがいいのかと。しかし、この禁令は、べつに世人の迷惑にならなかった。馬盗人など、江戸にはそういないのだ。
 だれの進言によってか、犬目付が増員された。そのため、職にありつけた下級旗本たちは、これでひと息つけると喜んだ。
 しかし、犬の死ぬ事故が、一時的な現象としてふえた。これまで、犬は荷車や牛車にあうと、本能的に身を避けていた。だが、犬の保護が励行されるようになり、とまってくれる荷車がふえ、車を恐れない犬もあらわれはじめた。一方、荷車のほうは、逃げてくれる犬もあるとい
うわけで、そのまま進むこともある。したがって、犬をひいてしまう件数が増加した。
 その対策として法令が出た。
〈荷車や牛車による犬の事故が、いっこうにへらない。車の主をしかることで防止できるかと思っていたが、効果があがらぬようだ。必要なのは犬の保護なのである。これからは、車の前にだれかを走らせ、犬たちに注意を与えるようにせよ。また、すみついたら困るからと、のら
犬にえさを与えない者がいるらしいが、そういうのは生類あわれみの精神に反することである〉
 将軍が市中のようすを知っているわけなどない。だれかが進言し、世間知らずの将軍との合議でできた法令だ。おかげで、車に余分な人間をひとりつけなくてはならなくなった。それでも、その年はこれぐらいのことですんでいた。
 翌貞享四年の一月、こんな法令が出た。
〈病気になった奉公人を、給料おしさで、くびにして追い出す雇い主があるそうだが、それを禁止する。どうみても許しがたいことである。牛馬に対しても同様だ。使用にたえなくなったからといって、病気の牛馬を捨ててはいかん。厳重に禁止する〉
 正面きっての反論のしようのない、妙な理屈が通っている。二月になると、江戸城内の台所頭が遠島になった。台所の井戸にネコが落ちて死んだためだ。そんな水で作られたになれぬ。職務怠慢で、処罰は当然だ。しかし、ネコ殺しの責任をとらされたような処分で
もあった。
 |鷹《たか》|狩《がり》が禁止され、鳥や魚を飼育して食料として売ることが禁止された。ただし、趣味として生物を飼うことはかまわなかった。
 山田半兵衛が安徳寺にやってきて、住職、五平、吉蔵たちに話した。
「しだいに忙しくなってきた。江戸中、どこの町に、どんな犬が何匹いるか、それを正確に記録する台帳を作ることになった」
「えらいことをはじめますな。なぜです」  


Posted by 淺笑嫣然 at 11:28Comments(0)

2015年09月24日

と思わないか

 ふわりと高く飛びはね、ふわりと地面におり立ち、ふたたび飛びはねる。そんな夢を殿さまは見ている。|天《てん》|狗《ぐ》の術を身につけたようだなと思いながら、あちこち飛びまわりつ

づける。そのうち、いつしか霧のなかへと迷いこむ。霧のなかで飛びはねるのも、ま
た面白い。景色がまるで見えないので、ちょうどからだが宙に浮いたままのようだ。ふわふわと白さのなかをただよいつづけている。しかし、不意に不安に耳鼻喉科診所襲われる。さっきから地面をけっていな

い。地面がなくなったのか。まさか、そんなことが。いい気になって霧のなかを進み
すぎ、がけのあることに気がつかなかったのか。限りなく落ちてゆく。支えのなくなった恐怖。落ちる、落ちる。ああ……。
 その驚きで、殿さまは目ざめる。朝の六時。夏だったら六時の起床が慣例だが、冬は七時となっている。まだ一時間ほど寝床にいられる。そばに時計があるわけでもないのだが、なんとなくそれ

がわかるのだ。寒い。敷ぶとん三枚、かけぶとん二枚。しかし、ここは北国。きびし
い寒さはいたるところにあるのだ。殿さまは足をのばし、湯たんぽをさぐる。陶器製のにお湯を入れたもので、かすかにぬくもりが残っている。あたりはほのかに明るい。そとは晴天で、うすくつ

もった雪に東の空の明るさが反映しているのだろう。きょうも寒い一日となりそうだ

 ここは城のなかの奥御殿。つまり殿さまの私邸。奥御殿と呼ぶ一画のなかには女たちばかりのいる|中奥《ちゅうおく》の|棟《むね》もあるが、ここはそうでないほうの寝室。一日おきに、こ

こへとまるのとむこうへとまるのとを、くりかえす萬聖節化妝派對ことにしている。べつに意味も理
由もないのだが、いつのまにかそんな慣習ができてしまったのだ。
 殿さまはかすかに目を開いて、つぎの間を見る。あいだのふすまはあけっぱなし。そのむこうに小姓が二人すわっている。いずれも三十歳ぐらいの家臣、不寝番だ。わたしが寝ているあいだ、彼

らは起きてすわりつづけ。わたしは夜ねるのが仕事、彼らは夜おきているのが仕事。
そういうことになっているのだ。彼らの前には、わたしの刀が布の上にのせておいてある。もし不意の侵入者があれば、彼らはわたしを起して刀を差し出し、同時に侵入者と戦うことになっている

。この泰平の時代にそんなことが起るとは思えないが、絶無とも断言はできない。だ
からこそ、彼らはそこにいなければならないのだ。
 あの小姓たち、わたしがぐっすり眠っている夜中に、わたしの刀をそっと抜いてみたいな。思わないだろうな。ひとりだったらそんな気にならないとも限らないだろうが、つねに二

人一組ときまっている。冗談にせよ、そんな提案をしたら、もうひとりにとっちめら
れる。そして|禄《ろく》を召しあげられ、家族は食っていけなくなる。わかりきったことだ。だから、そんなばかげたことの頭に浮ぶわけがない。
 武士は罪三族におよぶのが原則。なにかしでかしたら、当人はもちろん、少なくともその息子も処罰される。だから、身のまわりの世話をする小姓の役は、妻子のある家臣に限るのだ。元服前の

感情の不安定な少年などに任せるわけにはいかない。異性がわりに美少年を連れて出
陣した戦国時代とはちがうのだ。  


Posted by 淺笑嫣然 at 12:28Comments(0)

2015年09月21日

申すではご

 さて良秀の娘は、面目を施して御前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの妬(ねたみ)を受けるやうな事もございません。反つてそれ以来、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け御姫様の御側からは御離れ申した事がないと云つてもよろしい位、物見車の御供にもついぞ欠けた事はございませんでした。
 が、娘の事は一先づ措(お)きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。成程(なるほど)猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうに卓悅化妝水なりましたが、肝腎(かんじん)の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、相不変(あひかはらず)陰へまはつては、猿秀呼(よばは)りをされて居りました。しかもそれが又、御邸の中ばかりではございません。現に横川(よがは)の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばしました。(尤もこれは良秀が僧都様の御行状を戯画(ざれゑ)に描いたからだなどと申しますが、何分下(しも)ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。)兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう云ふ調子ばかりでございます。もし悪く云はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。
 しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。

 その癖と申しますのは、吝嗇(りんしよく)で、慳貪(けんどん)で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣(ならはし)とか慣例(しきたり)とか申すやうなものまで、すべて莫迦(ばか)に致さずには置かないのでございます。これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の御邸で名高い檜垣(ひがき)の巫女(みこ)に御霊(ごりやう)が憑(つ)いて、恐しい御託宣があつた時も、あの男は空耳(そらみゝ)を走らせながら、有合せた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写して居つたとか申しました。大方御霊の御祟(おたゝ)りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。
 さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい傀儡(くぐつ)の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無頼(ぶらい)の放免(はうめん)の姿を像(かたど)りましたり、いろ/\の勿体(もつたい)ない真似韓國 食譜を致しましたが、それでも当人を詰(なじ)りますと「良秀の描(か)いた神仏が、その良秀に冥罰(みやうばつ)を当てられるとは、異な事を聞くものぢや」と空嘯(そらうそぶ)いてゐるではございませんか。これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未来の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。――先づ一口に申しましたなら、慢業重畳(まんごふちようでふ)とでも名づけませうか。兎に角当時天(あめ)が下(した)で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。
 従つて良秀がどの位画道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。その連中の申しますには、川成(かはなり)とか金岡(かなをか)とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人(おほみやびと)が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。譬(たと)へばあの男が龍蓋寺(りゆうがいじ)の門へ描きました、五趣生死(ごしゆしやうじ)の絵に致しましても、夜更(よふ)けて門の下を通りますと、天人の嘆息(ためいき)をつく音や啜り泣きをする声が、聞えたと申す事でございます。いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございました。それから大殿様の御云ひつけで描いた、女房たちの似絵(にせゑ)なども、その絵に写されたゞけの人間は、三年と尽(た)たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだとざいませんか。悪く云ふものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちてゐる、何よりの証拠ださうでございます。
 が、何分前にも申し上げました通り、横紙破りな男でございますから、それが反つて良秀は大自慢で、何時ぞや大殿様が御冗談に、「その方は兎角醜いものが好きと見える。」と仰有つた時も、あのDR Max 好唔好年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑ひながら、「さやうでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。」と、横柄に御答へ申し上げました。如何に本朝第一の絵師に致せ、よくも大殿様の御前へ出て、そのやうな高言が吐けたものでございます、先刻引合に出しました弟子が、内々師匠に「智羅永寿(ちらえいじゆ)」と云ふ諢名をつけて、増長慢を譏(そし)つて居りましたが、それも無理はございません。御承知でもございませうが、「智羅永寿」と申しますのは、昔震旦から渡つて参りました天狗の名でございます。
 しかしこの良秀にさへ――この何とも云ひやうのない、横道者の良秀にさへ、たつた一つ人間らしい、情愛のある所がございました。  


Posted by 淺笑嫣然 at 13:42Comments(0)